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浦和で活躍すること。
そして代表に選ばれて活躍すること
それが・・・
今まで応援してくれた人々へ
支えてくれた人々への恩返し。
これからも、ずっと戦い続ける。
チームと自分のために
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山瀬功治
2002年8月17日札幌ドーム。
「前十字靭帯断裂」という大怪我を負った山瀬功治
2003年4月6日ナビスコカップ
浦和VS東京での73分・・・ピッチに戻ってきた。
山瀬功治の登場に駒場スタジアムはどよめいた。
浦和サポだけでなく札幌のサポにとっても感無量のシーンではなかったろうか。
彼は札幌の司令塔であり、札幌になくてはならない選手だった。
札幌がJ2に降格した際、山瀬の去就はチームにとってもサポにとっても
非常重要な問題であった。
山瀬功治が出した結論は「浦和レッズ移籍」であった。
彼に一部札幌サポから「裏切り者」という罵声もあったそうだ。
たとえ一部であったとしてもその声に傷つかないはずがない。
「いかないで」というサポの声が響かなかったわけではない。
悩み、苦しみ考えて21歳の若者がプロサッカー選手として出した決断。
彼は移籍の際、自分の口から札幌サポへ伝えたいと会見した。
落ち着いた、そして感情を押し殺した会見だった。
彼はひとつひとつ丁寧に言葉を選び、自分の思いを述べ札幌に別れをつげた。

そして・・・あの日苦しい表情をしていた山瀬功治は笑顔で駒場スタジアムにいた。
赤いユニホームを身にまとい、「8」を背負った青年はサッカーが出来る
喜びを噛み締めるかのように、声援を気持ちよく感じるかのように・・・
ピッチに入っていった。
この日、出場時間も短くボールタッチも少なかったが明るい表情をした
山瀬功治がそこにいた。
試合後、浦和サポの声援に深々と何度も頭をさげ、手をあげ応えていた。

次節の磐田戦(2002.04.12)では違う山瀬功治がピッチにいた。
長谷部との交代にピッチに入った山瀬の顔に笑顔はなかった。
すばやく全選手の位置を確認し、今何をすべきか何を修正すべきか瞬時に計算していた。
前線へのパス、攻撃への参加。コンビネーションがまだ上手くいかない点もあるが、
山瀬功治は確実に復活の道を歩きはじめている。
試合に出ても山瀬自身、自分のプレーに対する評価は低い。
彼自身が納得する状態に戻った時に本当意味での「復帰」になるのであろう。

視野が広く、ゲームメークのセンスは抜群である。
どこに選手がいてどのパスがいいのか、どんなパスを求めているのか。
この瞬間は自分が行くべきか否か・・・。時には予想もつかないプレーを繰り出す。
そんな山瀬功治を見られる日もそう遠い話ではないだろう。

アテネ五輪を諦めたわけではない・・・。
浦和での活躍を自分自身に課し、夢を諦めずに彼は今戦っている。
山瀬功治の「挑戦」・・・ゆっくりとそしてじっくりと見ていきたいのもだ。
その後、彼はアテネ五輪メンバーに選ばれた。
そして当初の予定通りに2度目の手術をした。
調子の悪いとき、怪我の時は山瀬功治は語らない。
とびっきりの笑顔とガッツポーズが見られるが待ち遠しい。


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